Courio-City 公式ブログ

タグ: ピスト

愛車復活!

87犬です。

長年愛用してきたZUNOWのデリ車ピストが修理を終えて復活しました、っていう話です。
 
昨年の師走、久しぶりに振られたラッシュオーダーをピックするため
意気込んで平沼橋をモリモリ踏み込んで上ってた時のこと。

「ピキッ、ピキッ!」っとペダリングと共にBB辺りから聞き慣れない音が。
そのまま弘明寺先までのデリバリーを何とか終え、バックする頃にはBBのカップが外に出始めてきてたので、なるべく踏み込まないようにして何とか野毛の自転車屋さん「102かわもと」に滑り込みました。
 
「BBを締め直してもらえませんか?」
「いいですよ~。」(気さくに対応してくれる店長のチャゲくん)

「87犬さん!BBを締めても止まらないっす!これ、ワン側のネジ山いっちゃってますよ!」
「えぇぇぇ~!!」

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・・・というわけでBB側ではなく、フレームのネジ山の方が年月を経て減ってしまっていました。
もう長年これでデリバリーしてるし、いよいよご臨終か・・・、と思ってましたが、元メッセンジャー同期で友人のブレンディ氏(池田氏)がフレームビルダーをしているため相談してみると、
「直せるかもしれないから、とりあえず見せてみて」とのこと。

池田氏は、REW10 WORKS(リューテンワークス)というオリジナル自転車ブランドを都内で展開している人気フレームビルダーだ。
他のビルダーさんが組んだフレームの修理を依頼すること自体、失礼に当たらないかとためらったが、実際は快く対応してくれた。(ありがとうブレンディ)
 
(ブレンディと自分は、昔メッセンジャーとして一緒に走っていた事がある旧知の仲です)

「真鍮を盛ってタップを切り直せば、まだ使えるよ」とのこと。
「10何年も使ってる割には錆もそんなにないし、キレイに使ってるね」と褒められ、これが結構嬉しかった!
 
「転がる石に苔むさず」ですよ。
自転車も、時々状態を気にしつつ走り続けていれば、長く使い続けられるんですよ。そうそう。
(乗らないとすぐ錆びちゃうけどね)
 
元々このZUNOWフレームは、京都KAZEのMくん経由で購入した競輪選手のお下がりでした。
2001年だったかな?当時京都にはピスト三兄弟と呼ばれる日本のメッセンジャーで
最初にピストに乗り始めた3人組が居て、自分はその五男坊・横浜支部ってことで
乗り始めました。(懐かしい話)
ちなみに当時東京では、ピスタチオを名乗るDちゃんやMが最初にピストに乗り始めた
メッセンジャーだったと思いますが、まぁ古い話しなので曖昧です。笑
当時はトラックバイクとかフィクスドギアという英語名の方が通っていた気がします。

 
自転車の塗装が溶接する熱で少し溶けてしまうとの事でしたが、直るなら構わなかったので正式に依頼しました。
 
そして、修理が上がってきた写真がこちら。(ババン!)
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BBシェルの上部にクラックが入っていたそうで、そこも真鍮で埋めてくれました。
塗装は、そのままの状態でクリアーだけ吹いてもらいました。
この火事に遭ったような焦げた感じ、たまらないですね!!
傷だらけの、働くワークバイク。
木工職人さんが使い続けて柄の角が丸くなり、手の油で黒ずんでしまった、
けれどよく研いであるから切れ味はものすごく鋭い、みたいな年季を感じます。
見た目はボロいかもしれませんが、まだまだ走れますぜ!
 
ということで、2月下旬からまたこのZUNOWくんで走り回ることになりました。(次ページへ)
 

パーツをセットして復活した写真がこちら。(バババン!)

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仕事の道具であり、愛車であり、大切なパートナーである自転車。
修理して乗れるなら、できるだけ長く乗り続けてあげたいですね。

「 モノは大切に 」
(・・・決してケチでセコいわけではありません 笑)

P.S.
今回の復活劇でご協力いただいたブレンディーとチャゲくん。
改めてどうもお世話になりました!m(_ _)m

100%ノンフィクションロードムービー第3弾 「愛しのミドリビンカ」

それは、今から一年ほど前のことだった。

ミドリへ

 今まで、身勝手でがさつなおれを文句ひとつ言わずに支えてくれてありがとう。
 ろくに大事にもしてやれなかったけど、あなたのおかげで幸せな日々を過ごせたことに今さらながら気づきます。
 振り返ると、一緒に色んな町に行ったもんだよね。箱根や富士山に登ったのも今となっては良い思い出です。
 もしミドリに先立たれることがあれば、おれも終わりかなと覚悟していました。

ミドビンカ

 

私事になるが、長年連れ添った愛車ミドリビンカが最期の時を迎えた。

2015/1/16(金)午後、冬の日差しが斜めから頬を射す。

一週間の業務もあと数時間で終わりだ。僕は建物に立てかけていたミドリビンカにまたがり、次のデリバリー先へ向かう。

「カキン」

鋭い感触が尻に響いた。あ、ヒビが入っていたサドルがとうとう割れたかな?と思いつつも、とりあえずそのまま走った。

「チーン!チーン!」

自転車のベルをつけたバイクが目の前を通り過ぎる。そんなことをするのは同業他社のナンチだけだ。髭面で黒ずくめで金のアクセサリーがギラギラしている死神みたいな風貌だが、バイクにはてるてるぼうずをぶら下げているチャーミングなやつだ。

ナンチ

 

彼は僕の自転車によくイタズラをする。ある日同じビルの中で会った時、「パッションさんサドル換えましたね?」と言うので、え?ずっと同じだよ?と答えると、「いや…なんか変わった形のサドルになってましたよ。」と言ってそそくさと去って行く。

なんか怪しいな~と思ってビルから出てみると、

いたずらサドル

 

こんなことになってたり。
またある時は、僕のサドルのヒビ割れにバンソコを貼ってくれていたこともある(笑)、優しい男だ。

そのナンチが過ぎ去ったあと、サドルよりも全然下の方からきしむ音が聞こえる。イヤな予感がして停まって見てみた。すると

BBシェルのラグとシートチューブがつながっていない!!

…………とうとう恐れていた時が来てしまった。
だが意外と冷静だった。
ゆっくりとならまだ走れるな。
残りの業務が完了するまでは添い遂げよう。
立ちこぎをすると、シートチューブがゆらり、ゆらりと、夕陽を浴びてメトロノームのように左右に揺れた。
こいつと一緒に走れるのも今日が最期か。

(正直、ナンチのイタズラか?!と一瞬だが思ってしまったことをここで懺悔したい)

今までの思い出が駆け巡る。

「カラビンカ」で知られる九十九サイクルさん。
僕が語るのもおこがましいし、説明するまでもないだろう。

九十九サイクル

 

そこを紹介してくれたのは、当時オレンジ色のカラビンカピストに乗っていた同僚だった。ズバ抜けて速い上に走ることへの見栄っ張り意識を一番強く持っていたメッセンジャーで、一緒に随分おバカなことをしてきたが「心の師匠」と言える存在である。名はアキラという。

今から10年近く前、折しもピストブームの真っ只中。中古で手に入れたトラックレーサーのフロントフォークにブレーキ穴を空けてもらいに行ったのが最初だった。

ご主人の田辺さんは、帽子を斜めにかぶりメガネを鼻の頭にちょこんと乗せ、にこやかに迎えてくれた。フレーム製作のオーダーを抱えながらも、部品の改造からママチャリのパンク修理までこころよく対応してくれるビルダーさんだ。

ある日なんか近所のおばちゃんが「なんでもいいんですけど、安い自転車ありますか?」とやって来たことがあった。その時お店にいた常連達は一瞬ギョッとしたが、田辺さんは「あぁ、それなら駅の方に西友がありますから、二万円ぐらいであるんじゃないかなあ?」と、ずらしたメガネの奥からやさしい目で答えていた。

一見、どの町にでもあるような自転車屋さんにも見える。

九十九サイクル修理看板

 

開店当時からあるという昭和感あふれる看板が迎え、敷居の高さはまるでない。もっと言うと、散らかっている親戚の家に来たみたいな安心感さえ感じる(スミマセン)。
 これは、ニコラスバイクワークスにも通じる(25チャンニモスミマセン)。

寡黙なスタッフのナガサワさんが真剣な眼差しでママチャリの整備をしているかと思うと、すぐ奥の板金工場の様なスペースでは競輪選手のフレームが作り出されている。
 ここのトラックレーサーを求めて、ピストマニアで知られるエリック・クラプトンがふらりと訪れたという話は有名だ。

ブレーキ穴を空けてもらってから一年ほど経った頃か。
 やはり業務中であったがそのフレームが折れ、修理に持ち込んだ時のことだった。
ダウンチューブが破断してトップチューブにもダメージを与えていた。2本差し替えるなら他のフレームを探した方がいいかもねえ…ということだった。

そうですか……。

しばらく他の作業をされていた田辺さんは、ガッカリしていた僕を不憫に思ったのか、ふいに

「うちで作ってみるかい?」
と声をかけてくださった。

え?……イイイイイインデスカ?!

それまで僕はカラビンカフレームをオーダーしたいと考えたことは無かった。というのも当時からオーダーが出来ないことでも有名だったからだ。競輪選手のオーダーで手いっぱいで、基本的に一般の受注はストップしている状況が今も続いている。

最近知ったのだが、実はクラプトンが訪れた際にも抱えているオーダーを優先するために丁重にお断りしていたらしい(!)。

てっきり、凝ったフルオーダーをして帰国したものとばかり思っていた。彼が所有しているというカラビンカのフレームは、おそらく中古か何か別ルートで手に入れた物だろう。かといって田辺さんは、よく勘違いしたラーメン屋なんかにいる様な高飛車な職人とは違う。どんな有名人だからって特別扱いはせず、フェアにお客さんを大事にする方だからなのだと思う。

とはいっても、天下のエリック・クラプトンである。僕も10代の頃、クリームをよく聴いていた。
「オヤッサン、ほんとにクラプトンて知ってたんすか?!…マイケル・ジャクソンとかよりスゴイんですよ?」と言いたくなる(笑)。

クラプトンが帰りの飛行機の中から眺めたTOKYOは、
きっと涙でにじんでいたに違いない。

それなのにそれなのに、まさかの展開である。

身体の採寸をして頂き、無造作に箱に積まれた色見本のチューブをじっくり眺め…あまりに突然のことにドキドキしながら時間をかけて色を考えた。

色見本チューブ

 

結局、好きな緑色にした。そしてシルバーで漢字ロゴ(篆書)をダウンチューブにのみ入れてもらうことにした。

半年ほどして完成した。カイセイ019という、一般人には剛性と柔らかさのバランスがちょうどいいクロモリのパイプで、丈夫で身体にやさしい。一見、そば屋とか酒屋の実用自転車の様な地味な色だが、朝日があたるとギラリと輝く深緑でとても気に入った。

自転車に求める要素は人それぞれ違って当然で、ファッションとしてやオモチャとして乗るのでもいいとは思う。僕はほとんど趣味では乗らないので、まずは商売道具としての機能性が必要だった。どのビルダーさんのフレームがいいとか合うとかなんて生意気は言えない。それ以前に正直よく分かってもいない。

ただ分かるのは、自分が気に入っていればそれ以上はないし、自分が信頼する人の手によるものなら大丈夫と思えるという事実。特に仕事で命を預けて乗る上で、そういった安心感はとても重要になる。

BBシェルの裏に刻印されているのは製造年月日で、08/08/2とある。6年以上乗ったことになる。どれだけのオーダーをこいつに支えてもらったことか。
業務以外にも、トラックレースやヒルクライム、仮装ライドでも常にこのフレームと一緒だった。

ベロシティ

 

紫陽花とミドビンカ

 

仮装ライドwithミドビンカ

 

間違いなく、僕の一生でこれ以上乗る自転車は無い。

金曜日の午後、最も業務に影響の少ない時を選んでしずかに身代わりになってくれた。
ゆっくり走りながら、「おれも一緒に引退かな…。」との考えがよぎった。

だが同じその時、同僚の火の玉兄弟チカッパがビシバシ走り回っていた。前日、ヒザに痛みを感じ病院に行っていたのに、信じられないオーダーをこなしていた。アキラ以来、僕が一番刺激を受けるメッセンジャーだ。

ちかっぱ

 

他社で誰だか知らない地味なメッセンジャーでも、モリモリ走ってる姿を見かけるとそれだけで胸を打たれる。無条件にかっこいいと感じる。そのインパクトを受け合いたくて僕はこの仕事をやっているんじゃないかと思う。だからこそ続けている間は自分もそうありたいと考えている。逆に、そう思えなくなったらスパッと辞めるつもりだ。

ヒザが壊れるかもしれないのに全力で前に進んでいるやつがいるのに、フレームが折れたからって気持ちも折れてる場合じゃないなと気づかされた。

翌1/17(土)
 電車で九十九サイクルに見てもらいに行った。

だがやはりもう最期だった。

さんざんこき使ってきたわりに、充分もちこたえてくれた。大往生だと言える。
覚悟はしていたつもりだったが、途方に暮れた……。

しばらくして、田辺さんが工房の奥から一本の白いフレームを手にたずさえて現れた。

「これを使うといいよ。」

それは訳あって競輪選手から出戻ってきたフレームだという。
「サイズは合うと思うから使ってよ。」と。

え?……イイイイイインデスカ!!
(デ・ジャ・ヴュとはこのことだ)

「うちにあっても邪魔なだけだから、ゴミが減って助かるよ~。」と、ずらしたメガネの奥で目尻をしわくちゃにして笑った。

それはほとんど新品といえる状態で、真っ白なフレームにロゴはシルバーでKalavinkaと入り、ヘッドバッジは外されていた。チューブは8630Rという固くて反応のいいパイプが使われているプロ仕様であった。

ネットオークションで売り飛ばせばかなりの値段がつきますよ!という僕の失礼な冗談にも、目尻にしわを寄せ笑って流してくれた(恐れ多いにも程がある)。

田辺さんの目分量による見立ての通り、ヘッドチューブは僕のフォークがぴったりそのまま使えるサイズだった。そしてミドリにつけていたイタリアンのヘッドパーツもそのまま使える様にと、あっという間にヘッドチューブの内側を削り、内径を合わせてくれた。
 ナガサワさんにはBBの乗せ換えまでして頂いた。しかも、中に水がたまってグリースが流されていたので、BBシェルの裏に水抜きの穴まで空けてくれた。なんか、歯医者に行ったら歯を磨かれてしまった的な恥ずかしさである。

あまりのことで僕はただアワアワ立ち尽くしている間にも、お二人はスパスパと作業を進めていく。

たまたまお店にいたナカムラさんというお客さんも一緒に作業を見守っていた。田辺さんは、ナカムラさんのことを呼び間違えて「ナガサワさん、」とか話しかけて世間話をしていたが、慣れているのか本当のナガサワさんはそれにこたえず黙々と作業に集中していた。そのコンビネーションがおかしかった。
 田辺さんにはフレームにワックスまでかけて頂き、ナガサワさんは寡黙に迦陵頻伽シールをヘッドチューブに貼ってくださった。

※ついでに、マニアの間でよく語られる「カラビンカトリビア」の真実をいくつか。
 ヘッドバッジのストックが残りわずかで、多くのメーカーと同様にシールに切り替わるという噂。確認してみたところ、選手用のは安全面も考慮してすでにシールになっているそうで、一般のお客さん用には今まで通りのヘッドバッジで製作されるそうだ。

迦陵頻伽バッジ

 

「うちの(田辺さんの奥さん)がメガネをとっかえひっかえして作ってるよ。」と笑う。
あと「七宝焼き」と説明されることがよくあるが、それは間違いだそう。
(まあフレームの性能に何ら変わりはないことだが)

とっくに営業時間は過ぎていた。
            おまけにみかんまで頂いてしまった。

失礼かと思い作業中の写真撮影は控えたが、まさに職人技だった。

一応書き添えておくと、フレームが折れたからといってこんな対応をして頂けることは通常あり得ない。巡り合わせが良かっただけだ。(そしてこんなことは公開するべきではないかもしれないが、工賃すら一切受け取ってもらえなかった)

電車での帰り道。

二つのフレームを両手に抱え、僕は気持ちが落ち着かなかった。大好きだった深緑色のフレームが、パーツが外されて随分と軽くなった姿で傍らにある。もう二度と乗ることはないだろう。まるで遺骨を持って帰る気持ちである。

そして僕の傍らにもうひとつ、とても上品で仕事で使うにはキレイ過ぎるピストバイクが妖しく光っている。

梱包された白フレーム

 

引退もよぎったその翌日にこんなことになるなんて、飛び上がるぐらい嬉しい一方でなにか違和感も感じていた。

長年連れ添った古女房に先立たれて喪に服すつもりでいたのに、すぐに若い愛人が出来てしまったみたいな罪悪感が沸き起こっていた。

青白く輝くフレームはトップチューブも太くなり、塗装はつやつやしている。なんかむっちりピチピチした小娘に見えた。そして使用していた選手のお子さんが貼ったのだろう、ミッフィーのシールまでついているキャピキャピしたやつだ。

シロビンカ…………僕には眩しすぎる。

カラビンカ乗りの友人アケチくんにそのことを話すと、「まあミドリビンカのこどもと思えばいいんじゃないですか?」と気をつかって言ってくれた。

その気持ちはありがたく頂戴したが、よく考えてみると“折れたフレームのこども”って何なんだ?……まったく意味が分からねえ……。

ミドビンカ後ろ姿

 

ミドリビンカで愛用していたリアブレーキ台座は、元同僚のバニヲが開発した“バニーブレーキ”。この世に限定30個しか作られていない。とてもコストがかかっている筈だが、そのうちの一つをスポンサードしてくれた。

一般的なアルミの板で挟むタイプとは全く発想が異なり、シートステイとブリッジの内側から、ロボットがアームを突っ張るようにして固定する。見た目も革命的だが、この台座にはフロント用ブレーキではなく普通のリア用のを取り付けられる厚さになっているのがエライところだ。

田辺さんも毎回「いやぁスゴいねえぇ………えぇ?!(口癖)」と絶賛されていたパーツだ。

シロビンカ後ろ姿

 

シロビンカの後ろ姿。

集合ラグ&つぶしが入ったシートステイというスパルタンな仕様になっている。つまり固くてビシバシ進む。

シートステイの間隔が狭く、これにはバニーブレーキは着けられないので、以前BANKイベントの賞品で頂いていた天婦羅サイクルさんオリジナルの台座を使った。ステンレス(現行商品はアルミ製だそう)の感触が気持ちよく、数種類あるデザインのどれもシンプルでかっこいい。くり抜かれた星形といいミッフィーといい、実にファンシーな仕上がりとなった(笑)。

考えてみると、これらも含め業務で愛用している道具はもらい物ばかりだ。

使い込まれたクロモリのドロップハンドル日東B123は、アキラ師匠から譲り受けた魂のパーツ。
 メッセンジャーバッグは、同僚ジャージ氏提供のUnder11(アンダーイレブン)。 T社のホンマンと街で会うと「形がキレイですよねえ。」といつも言ってくれる。
 携帯ホルダーも、名古屋のwelldone(ウェルダン)イノッチさんに特注したモデルなのだが、結局頂いてしまった。
 道具自体も僕にとってベストな物ばかりだが、スポンサードしてくれた人たちも素敵な男ばかりであることに気づく。

これから、先にフレームが折れるか自分が折れるか分からないが、 まだまだセンチメンタルジャーニーは続くようだ。

木彫りの鳥

 

それから丸一年が経った2016年。年明け二週目の朝のことだった。

僕の腰に激痛が走り、起き上がれなくなった。数日してヨボヨボと病院に行くと、疲労骨折していたことが判明した。
 レントゲン写真を見ると、背骨の一番下のピースと腰骨をつなぐ部分がズレている。フレームでいうと、シートチューブとBBシェルのつなぎ目である。

あ……ミドリビンカと同じ場所ってことか……

医師の説明中だったが、そのことに気づいた僕はうっかり笑ってしまった。

奇しくも、ミドリビンカが折れた日からちょうど一年後の1/16、
うららかな午後のことだった。

こうして、僕とミドリとの甘い日々は終わった。

ナイトミドリビンカ

 

100%ノンフィクションロードムービー第2弾!「魚が飛んだ日」

若き日の植木等はジャズギタリストだった。
二枚目だった彼に、ある日「スーダラ節をやらないか?」との話が舞い込んだ。悩んだ末に浄土真宗の僧侶でもある父親に相談したところ、
「……スバラシイ!分かっちゃいるけどやめられないという歌詞は、親鸞の教えにもつながる!!」
と背中を押されたという。

ツール・ド・東伊豆から2年。
あれはしんどかった。個人的にはトラックレーサーで参加したこともあり、ゴール後はもう二度とやりたくないと思った。ホッピーの「ロードレースにピストで参加するなんてバカですよ。」の言葉がリアルな教訓として残った。

しかし、人間とはなぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか。
今回のツール・ド・西伊豆にも、普段業務で乗っているトラックレーサーで参加することにした。
「わかっちゃいるけどやめられない!」
……これは親鸞の教えにつながるのか?

今回の日程は、2日間のうち一日目に130キロを走り、二日目はもう走りたくないだろうからと予備日になった。極端だぜ!

前回「東伊豆」は、100キロを4つのステージに分けてポイントを重ねるレース形式だった。その勝負も楽しかったが、今回は順位をつけずにツーリングとして走りたいという声が多かった。
とはいえ色んなモチベーションのメンバーに応えるために、レース的な要素も入れようかとの意見も出た。
たとえば僕の案は、コースに前もってゴムボールをたくさん仕込んでおき、それを見つけるとポイントを獲得していく「DRAGONBALL RACE」とか。実をいうと僕は5年ほど前に、出田町埠頭と山下橋交差でドラゴンボールを拾ったことがある。

ドラゴンボール
(大掃除で一つ出てきた)

その時は横浜辺りの埠頭を回れば7つ全てが揃うんじゃないか?!と興奮したものだ。
でも結局そのアイディアは却下され、ツーリングだけという形になった。競いたいメンバーは勝手にやるだろうしと。
そんな流れもあり企画者のZOOから、予備日である二日目に何かレクリエーションを用意してほしいとの無茶振りを受けた。すでにみんなには「パッションカップやります。」とアナウンスがされていた。

レース数日前。
天気予報では、伊豆半島に台風が2つも直撃しそうな状況になっていた。※tenki.jpより引用
台風3兄弟 9/10/11号

レース当日。
台風11号進路図

わざわざ新幹線で宿のある下田まで行って、宿の中で酒盛りだけして帰るのはわびしい。
なんとか畳の上でも出来ることを考えなきゃなとの危機感が強くなった(この時点では、直撃するのはステム台風とZOO台風であることはまだ誰も知らない)。

海×自転車といえば、まず思い浮かぶのは「シクロクロス」。そして魚釣りも捨てがたい。
そこでこんな競技を考えてみた。砂浜のコースを自転車で走るミニシクロクロス。最後に池のゾーンを作り、縁日の釣りみたいなゲームをする。1周して1匹釣り上げる毎に1ポイント獲得で次の走者にリレー。これをエンデューロ形式で続け、最終的に漁獲高(=周回数)が多いチームが優勝となる。
魚はダンボールか何かで作ろう。これならもし宿にカンヅメになったとしても、ちょっとは海に来た気分を味わえるかな。

競技の名前は
“Fisherman’s Cyclocross”(シクロクロス漁師風)
と名付けた。
カッコイイ!……でしょ?

業務の合間に神保町の古本屋街を回った。魚の図鑑を探すためだ。昭和感あふれるイラストのやつをイメージしていた。
何軒目かに一冊の本を見つけた。江戸時代に毛筆で丹念に描かれた図鑑の復刻版。当時としてはボタニカルアート的な書物だったのだろうか。

魚図鑑

魚たちの、豆鉄砲を喰った様な目にくすぐられた。
その中に同僚ランマがいたのが決定打となった。

亀イラスト

それから魚を選んでシールの用紙にコピーし、プラダンという素材(よくビルのエレベーターの中とかを養生するために使われてる素材)に貼り合わせる。そして釣り針をひっかける為のひもを挟んだ。

競技用魚制作中

前日の夜中に、なんとかここまでの準備は出来た。
子供の頃から宿題はギリギリまでやらないタイプだった。
少しでも眠っておかなきゃな。睡眠を削りフラフラのコンディションで参加してもいいことはない(東伊豆で学習した)。
釣り竿作りの作業が残ったが、どこかでスキマの時間を見つけられるだろう。

7/18(土)一日目

朝早く起きてマシンを磨いた。

前回、トラックレーサーで「マウンテンピスト」の限界を追求したのも楽しかった。
その愛車ミドリビンカは今年に入って折れてしまい、今の商売道具はシロビンカになっている。

シロビンカ

今回、業務仕様からいじったパーツは、コグを大きいのに替えたぐらい。ギア比は47/18で2.6になった。めんどくさがりの僕にはこれが精一杯だった。
レースではギアの変速があるロードバイクの方がもちろん速いが、固定シングルギアであるピストバイクの方が疲れないんじゃないかとの考えもあった。
こんなことをいうと山の神様たちから
「おみゃー、伊豆をなめんじゃにゃー!!」
と怒られそうだ。

三島駅からのローカル電車はゴトゴトと霧の中を進む。

フタを開けてみると、山の神様たちは僕らを歓迎してくれたようだ。
明るい曇り空で、たまに霧雨が涼しくしてくれるという最高の自転車日和になった。

沼津駅前、10:30。
集まったのは、アイス、クッキー、ジャージ、ZOO、ステム、ちーくん、ノヤギ、パッションこと僕、フックんことエネゴリ、ペーター、ペヤング、社長ヤナケン、らんま、リヒト、ワイズ、……そして名古屋のデイジーメッセンジャーに嫁いだおやつと盟友しえさんが参加。総勢17人の旅になった。

沼津駅スタート

みんなは緊張感と、遠足がはじまる前のワクワクした雰囲気にあふれていた。
アイスはサドルにぶら下げたスピーカーから大音量で音楽を流している。僕は今どきの音楽は全然知らないが、ローリング・ストーンズの“Miss you”は分かった。彼らが50代目前でやっと初来日を果たした当時僕は高3で、同級生たちと卒業式の練習をサボって観に行ったものだった。親子ほど歳の離れている世代のアイスがそんな選曲をしていることに驚いたが、今思えばこの時すでに退職を決めていた彼の、何か暗示だったかな…?としみじみ考えてしまう。

アイス写真

スタート時間は押していた。修学旅行でいうと典型的なダメな班の感じである。集合写真を撮るにもままならない浮かれた一行に、ZOO低気圧が発生しはじめていた。
ペヤングは「イラZOO」と表現した(だがこれはまだZOO台風ではない)。

一本棒でスタートして間もなく、静かな沼津駅前で発砲事件が起こった!!

ステムのタイヤがパンクしたのだった。
日曜日の朝っぱらから地元のマフィアの抗争か?!と思ったぐらいの爆発音だったが、沼津には穏やかな人しかいない(気がする)。

ステムのパンク修理

ステムはチューブを換えようとしたが、リムが派手に破裂していた。これでは直しようがない。空気圧など気合いを入れて準備をしてきたのは伝わったが、彼の夏は5分で終わった。
とっておきのフレームは、もはや巨大な空き缶でしかなかった。
ステムは「一回家に帰ってバイクで出直しま~す!」とオチャラケてみせたが、爆発直後ほどの笑いは起きなかった。
みんなマシントラブルには慣れている仕事柄もあり、ドライに置いていくことにした。

荷物は各自で背負って走る覚悟だったのだが、直前になってサポートカーを出してくれた人がいた。しかも2台も。これには本当に助かった。
ステムは、運転してくれるノヤギと交代でホイールを使わせてもらうことで、このツールに復活が出来たようだ。
……だが結果をいうと、みんなに合流することはなかった。
翼をさずかったステム台風は、速度を上げ、急速に進路を外れていったのである(それがのちに嵐を巻き起こすことは、この時はまだ誰も知らない)。

道中のレポートは、みんなが文章と写真を紹介してくれたので僕は省略とする。
ホントはめんどくさいだけだ。

2台のピスト
個人的に好みの2台、シュパーブ兄弟。

フックんの魚拓

ギア比3オーバーで黙々と山道を走っていたフックんことエネゴリの魚拓。

夜。鷲山会の晩餐がビシッと始まった。

民宿の夕飯、鯛の造り

豪華な鯛の造りは、餓えた大家族の前では一匹のほっけの様なもので、あっという間にツマだけになった。
そしてちらほら宴が始まった頃、雨の降り出した宿の玄関前でしずかにZOO台風が発生していた。

ここもワイズの文章にまかせて僕は省略とする。

ZOO台風に巻き上げられ、深夜気がつくと宿から30キロ離れた場所にいた。そこは暗闇からゲコゲコと蛙の声だけが響いている川沿いの道だった。
僕たちは途方に暮れた。ファミレスなんかはありそうもない。駐車場やコンビニをさまよい、屋根のあるバス停に流れついた。

夜のバス停

小康状態に勢力を落とした小型ZOO台風は、「歩けば6時間で帰れる…」とイラZOO気味に呟いたが、今から朝まで歩き続けるなんて僕は絶対にゴメンだった。無視してここを今夜の寝ぐらと決めた。
木製のベンチに横になる。

バス停内の雀の巣

天井のツバメの巣を見上げながら、東伊豆の前日に野宿する羽目になったことがフラッシュバックした。
ああ……
おれは今回もベンチなのか……。

普通なら今ごろ旅館の座布団の様な布団や、もみがらの詰まった枕でぐっすりと眠っている筈だった。130キロを走り、宿の岩風呂に入り、鯛を2切れほど頂き、
まさかそれからベンチとはなぁ……。

短パンビーサンだった僕の脚は蚊たちの格好のご馳走になった。蚊れらにしてみたら、それこそ鯛の造りがドーンと置かれた様なもんだろう。
もうこうなったらノーガード戦法しかない。3h飲み放題、くれてやった。

そして伊豆の蚊はデカイ(気がする)。
ボリボリ、ウトウト……ガリガリ、ウトウト……。

すごい土砂降りで何度か目が覚める。
ツールの二日間のうち一番強く雨が降ったのは、ちょうどこのバス停にいた2~5時の間だった。それはついていたと言える。そして気候も生あたたかい。野宿日和だ。
まったく眠れなかったというZOOの横で、僕はイビキをかいていたらしい。

夜が明けてきた。

バス停は波の音が聞こえるほど、海まで歩いてすぐの場所だった。

ひとり、夜明けの海を散歩した。

夜明けの浜辺

思えば昨日はさんざん海岸線を走っていたのに、チラッとしか海を見る余裕はなかった。思わぬ贅沢な時間になった。
だが僕には宿題が残っている。
Fisherman’s Cyclocross用の釣り竿作りだ。おそらく宿でガーガー眠っていたらギリギリまで起きなかっただろう。はからずもこの海岸まで飛ばされたおかげでその機会が出来た。

浜辺に打ち上がる物

流木を拾っては捨てcatch & release、厳選して釣り竿を選んだ。

ZOOが遠くからトコトコと歩いてきた。

東伊豆の二日目の朝を思い出した。何人かで民宿の近くのイートインのコンビニで朝食をとっていたら 、ZOOがトコトコと歩いて通り過ぎて行った。あれ?…どこに行くんだろう?と北極と不思議に思った。
しばらくすると本人から、「だれかおれの眼鏡知りませんか?」と一斉メールが届いたので爆笑した。
いつも何か考えながら歩いている様に見える。
ついでにいうと、眼鏡は外には落とさないと思う。

海岸からすぐ隣にある公園に移動した。水道で流木を洗い、すべり台に並べて乾かす。
昨日あれだけ走っていて疲れていない訳がない。朝になれば宿から救助の車が来てくれることになっている。それまで身体を休めよう。
こんな時は、個人主義の者同士でもなんとなくつかず離れずの距離を保つのがおかしかった。特に会話もなくZOOはコンクリートのベンチで、僕は芝生で横になった。
海からの涼しい風が、二人と五本に吹きつけた。

Fishermanで使う流木

宿でみんながモゾモゾ起き出した頃。
社長ヤナケンとジャージは、朝食も食べずに車を出してくれた。

僕らはブロック塀に少し離れて座り、カップラーメンを食べながら救助を待つ。

一時間ほどして、ワゴン車が迎えに来てくれた。ザ・寝起きのジャージ王子様が顔を出してニカッとした。土偶みたいな目をしていた。
宿までの道は、山道にしろ海岸線にしろ、くねくねと激しいルートしかない。
こんな道を、しかも真っ暗な中30キロ歩いていたら……と考えるとゾッとした。おそらく今頃は南伊豆の野に咲く花となっていただろう。
夜中にタクシーを呼ぶという選択肢もあったが、やはり朝まで動かなくて良かった。片道だけで一時間以上ガタゴト揺られ、吐きそうにもなった。もしタクシーに乗っていたら後部座席を血だらけにして、運転手さんに怖い話を提供することになっていたと思う。
寝起きに往復してくれたヤナケン、ジャージ両氏に感謝です。

宿に着くとみんなはもう朝食を食べ終わっていて、畳の大部屋でまどろんでいた。
そして昨夜起こった出来事を聞きたいけど聞いていいのか分からないという空気が漂っている(笑)。

旅館の布団で眠ることは出来ずじまいだったが、旅館の朝ごはんが待っていた。アジの干物を焼いたメニューだった。定番の包装されたのりもあった。
ZOOの席には大好物の紙パックのコーヒー牛乳が用意されていた。元気づける為におやしえ*が買って来てくれたらしい。
ZOOはこの二日間で一番のハニカミ笑顔になった。
*おやつ。としえさんのこと。

好き嫌いの激しいZOOはコーヒー牛乳だけを飲んで朝風呂に行った。
それをいいことに、僕はアジの干物をつつきながらみんなに昨夜のことを報告した。彼こそがサカナだった。100%ノンフィクションである(つーてもこのレポートには50%にしといてやっただがね)。
みんなは寝ぼけた目を輝かせてゲラゲラ笑って聞いてくれた。ほんとにかわいいメンバーだと思った。しえさんは正座して膝の上にハンドタオルをのせて微笑んでいた(気がする)。その横でおやつは大の字に寝転んでいた。おやつはそれでいい。

7/19(日)

快晴になった。
二日目は時間のしばりは無く、寄り道しつつ最終的に下田駅に辿り着けばいいというアバウトな感じだった。

宿から5キロほど自転車で走ると海に出た。
龍宮窟という岩場がある。こんな場所があるのか!とビックリする名所だ。

龍宮窟でのワンシーンその1

一日目の山岳コースで水に飢えていたのか、みんな少年のようにはしゃいだ。

龍宮窟でのワンシーンその2姫サザエ龍宮窟でのワンシーンその3

となりの田牛(とうじ)海水浴場&サンドスキー場でも暴れまくった。

岸壁飛び込み大会

岩場から次々に飛び込む少年中年たちを見ながら、もうこれがツール・ド・西伊豆の最終ステージでもいいなと思っていた。
……だが、また「イラZOO」の発生する気配を感じた。僕は少々ビビった。

少し下田方面に進むと、吉佐美大浜海水浴場という砂浜に出た。このツールで、初めての(みんなで行く)砂浜だった。
このツールでスゴイというかヒドイことは、誰ひとりとしてどこも下見をしていないということだ(苦笑)。その場での判断力が試される。
ちょうどいい場所がなければお蔵入りでもいいかなとも考えかけていたが、ここでやることにした。

Fisherman’s Cyclocross!

事前にZOOは、「自転車で砂浜を走るのは(サビを)いやがる人もいるでしょうね。おれは自分の自転車では走らないですね。」と言っていた。…ツメタイ。
実際、「自転車持って降りてきて~。」と言うと、リヒトなんかは露骨に「ロードでこんなとこ走りたくねえよ…。」とブツクサ言いやがった。
コノヤロ~と思ったが、無理もない。でも何人かは自転車を浜に持ち込んできてくれた。

Fisherman Cycrocross ルール説明

くじで3人×4つの漁師チームに分かれた。

  • アイス→ジャージ→クッキー
  • リヒト→ワイズ→ノヤギ
  • ペヤング→フックん→らんま
  • ステム→ペーター→ヤナケン

それぞれの第一走者がビーチフラッグのスタートの姿勢でスタンバイ。
おやつのアレンジで?随分と遠くからのスタートになっていてビックリした。
スターターをつとめてくれたおやしえが棒を振り下ろすと猛然とダッシュする4人!
水しぶきを上げて川を越え、コースに迫ってくる!!
とても絵になる。やはり勝負ごとになると燃えるメンバーだ。

Fisherman Cycrocross スタート

4台並べられた自転車から一台を担ぎ上げ、テニスコートくらいのコースをぐるっと回る。はだしのやつもいる。一周すると自転車を置き、相撲の土俵のような池のゾーンに集まる。そしてバトンを兼ねた釣り竿の糸をたらした。
走るのが速いだけじゃダメで、確実さもないと結果的に遅くなる。それはなんだか業務と似ているのもおもしろい。

Fisherman CycroCross Scene 1 Fisherman CycroCross Scene 2 Fisherman CycroCross Scene 3


なんだかんだいって、憎まれ口を叩いたリヒトが一番に吊り上げてきた!
釣り糸にぶら下がった魚がピチピチ跳ねているように見えた。
リヒトは肩で息をしながら、ワイルドな顔を恍惚と輝かせていた。

土俵に42匹いた魚は、みるみるうちに吊り上げられていく……。

正直に言うと僕はこの時、なにかカウントダウンの寂しさも感じていた。

このメンバーのおかげで最高に楽しい夏休みになった。

レース後最終カウント

こうして、この夏のツール・ド・西伊豆は終わった。

伊豆の海と緑

100%ノンフィクションロードムービー 「一人だけのツール・ド・東伊豆」(改訂版)

この記事は2013年7月6日に行われた「ツール・ド・東伊豆」へのアナザーストーリー「もう一つのツール・ド・東伊豆」を新たに書き起こした記事です。

メッセンジャーはいつだって自転車が大好きなんでしょ?と思われがちである。
休日に遠くまでツーリングに行ったりするタイプもいれば、自転車に指一本触れないまま月曜日を迎えるタイプもいる。僕はというと……典型的な後者だ。

「ツール・ド・フランス」も観たことない、ロードバイクすら持っていない。
しかし…出ることになってしまった……社内ロードレース大会「ツール・ド・東伊豆」。

総勢15人が出場、3チームでの団体戦として振り分けられたうちのメンバーは、
●社長ヤナケン ●ホッピーことジロー ●チョモことイチロー ●おやつ ●僕の五人。

この中でチョモと僕の二人はピストでの出場。
一応解説、ピストとはギアが一枚なので変速が出来ない。山岳コースにおいては、雑な言い方をすれば軽いママチャリでしかない。

レース展開は想像がついた。
ホッピーがぶっちぎりで独走、残りの四人は途中でおいしそうな蕎麦屋とか見つけたら最後、勝負を忘れてくつろいでしまうだろう。
そして先にゴールしたホッピーが「あいつら何やってんだよ…フザケンナヨバカヤロ…!」とカリカリしながらお腹もカリカリかいている、という展開。

彼は僕に言った。
「ロードレースにピストで出るなんてバカですよ。おれだったら出ないですよ。」
勝負師の彼らしい。彼は機材にも妥協を許さない。
…そうだ、これはツーリングではない。勝負なんだ!

ミドリビンカ

でもマシンは、商売道具として愛用しているミドリビンカで走りたかった。
これでどこまで勝負出来るか?
その一部始終をつづった悪あがき日記をご紹介致します。

2013年6月28日(金)

レース1週間前、コースの詳細が発表された。
伊豆半島の東側を回るルートで、全長100キロが4つのステージに区切られている。距離こそ長くはないが、かなりの山岳ステージもあるという。
同僚たちは、ルートを調べたりパーツを替えたりと、静かに燃え始めた。

東伊豆ルートマップ変更前

僕はとりあえずハンドル周りをいじってみた。
日東B123ドロップハンドル340mmを、幅の広い400mmのロード用に替え、ブレーキレバーをブラケットの物に。見た目は好みではないのだが登り仕様にした。

そして何よりもギア比のセッティングだ。この選択が勝負を決めるといっていいだろう。
まずは登り用を考える。普段使っている厚歯でいくとチェーンリングの最小が42T、コグの最大はフリーで20Tというのが市販されていた=ギア比は2.1。相当軽い。
だがそれでもこのレース最大の難所、山伏峠は登れないらしい。
手持ちのパーツをひっくり返していると、10年以上前に初めて買ったマウンテンバイクについていたクランクが出てきた。ずっしりと重いそいつのほこりを払って見てみると、チェーンリングの最小が22!軸が四角い時代の物で、右クランクだけつけ替えることも出来る。トラックレースでも薄歯を使ったことがあるので対応する規格は知っていた。「6~8速」のチェーンと薄歯のコグで組み合わせれば……いける!

両切りホイールも駆使すれば、何種類かのギア比が使える。大丈夫だろう。
登りは1.5を切るぐらいの軽さの固定ギアがいいかな、下りはなるべく大きいフリーギアにしよう。
実際にマウンテン用のクランクをつけてみた。チェーンラインは問題ない。しかしチェーンリングの大きさに差がありすぎるため、インナー使用時にホイールを後方に引くと、トラックエンドのスライド幅を最大限に使ってもシャフトがエンドからこぼれ落ちてしまう。つまりチェーンが長過ぎる。

ミドリビンカ エンド

チェーンの長さは一本ではダメだということが判明した。

スペアのチェーンを持って走る?
コグを交換する必要もあるか?
各ステージのゴール地点で交換するなら、サポートカーに道具を預けて走れるか?
チェーンリングを外すのはめんどくさいから、いっそのことクランクごと換えちゃうか?
ならば厚歯も併用するか?
……仕事中も、ギア比のことばかり考えながら過ごした。

※ここからは、メカニック関係の方は決して読まないで下さい(苦笑)。

通勤で246を走っている時に、あるアイディアがひらめいた。
それは、マウンテンのクランクをフリー用として使い、さらに左側に固定ギア用のクランクをつけること!
つまり左右両側にチェーンリングを備えた、いわば「クランクの両切り」。
もちろん、両切りハブにもフリーと固定のコグをセットする。
これによってチェーンを換えるだけで薄歯フリーと厚歯固定の二種のギア比が使い分けられる。

ミドリビンカ 両切りクランク

ここでまた一応解説。

  • 「フリーギア」とは、走っている時に脚を止めるとチ~~~と空回りする一般的なホイールのことで、コグ(歯車)にその仕組みが内蔵されている。
  • 「固定ギア」のコグは、その仕組みが無いただシンプルな歯車だ。ペダルとホイールがチェーンで連動して(一輪車の様に)動き、後ろ向きに踏むことで減速をする。さらにやろうと思えば後ろにも進める。そして剛性を重視して厚いチェーンを使うことが多い。その規格が厚歯用といわれるものだ。

競輪などトラック競技のピストには安全のため(!)ブレーキをつけないので、走っている間はずっと脚を回しながらコントロールをする。

マウンテンのクランクを右側にしたのは、もちろんフリーコグが空回りする回転方向があるからだ(もし左側につけたとしたら、前に進めないエアロバイクになってしまう)。
そして固定ギアなら左側につけても前に進める、というわけだ。
現にうちの社長ヤナケンはクランクを左につけている。当然、ペダルを踏むとコグがネジ山から外れる方向に力が作用するが、ロックリングを思い切り締めていれば問題ないと言っていた(よい子は決して真似をしない様に)。

長さの異なる、フリー用薄歯と固定用厚歯の2本のチェーンを用意し、走る時には片方のチェーンとジョイントをポケットに入れておくという、おそらく人類史上誰も試みた者はいないであろうアイディア。
……ここまででお気づきの方もいることでしょう……そう、ロードバイクがあれば済む話なのだ。
つくづく自転車の進化の歴史は、試行錯誤の歴史であることを思い知らされた。

手持ちのコグを並べ、ギア比の表を書き出し、地図をにらみ、頭を抱える数日間を過ごした。

7/4(木)明け方4:00

チェーンオイルにまみれうとうとしつつも、使うギアはとりあえず決まった。

これが僕の作戦の全てだ。

  • 第1ステージ
    熱海駅前からは固定ギアでスタート。
    ▲山伏峠に登り始める地点で、まずは両切りホイールをひっくり返して軽いフリーギアにする。→そのままフリーで下る。
  • 第2ステージ
    修善寺から天城峠へのダラダラ登りには、またホイールをひっくり返して固定ギアに。
  • 第3ステージ
    天城峠山頂でコグとチェーンを交換し、下り&海岸線仕様の重いフリーギアにする。
  • 第4ステージ
    熱川からゴールの宇佐美までもそのまま。多少のアップダウンは二枚あるコグのどちらかでなんとかなるだろう。

もう一つのツールド東伊豆 ギア比表

なんだ、走っている途中でシフトチェンジするのは山伏峠手前の一回だけだ。

最終的に、使うクランクはマウンテン1本にした。チェーンは「6~8速用」を2本。両切りホイールを活用することを考えて、コグはフリー&固定ともに薄歯に揃えた。
思いついた時には身震いさえした「クランクの両切り」は、仮組みしてはみたもののやっぱりやめた。
理由は単純に、重すぎるからだ(苦笑)。
クロモリのピストフレームに右クランクを2つくっつけてヒルクライムに行くバカはいない。
ギリギリ気づいた。

フッフッフッ…完璧だ。僕はニヤリとし、朝日のなか眠りに落ちた。

7/5(金)レース前日

ホッピー先生はお腹をかきながら鼻で笑った。
「それは100年前のツールですよ。」

ウールのジャージに身を包み、ギアの変速なんてなかった時代。選手の親戚の叔父さんとかが、山のふもとで替えのホイールや新聞紙に包んだアップルパイなんかを持って待ち構えていたのだろう。
それはそれでいい時代だと思う。
今は100年後ではあるが、トラックレーサーで走ると決めたんだからしょうがない。100年前のロードレーサーよりは軽いだろう。
当時の選手だってアルプスを越えたんだ。
伊豆ぐらい越えられないわけがない。

黒いトリプルのクランクをつけた違和感あふれるピストで一日の業務を終えると、僕は浜松町の職場から品川駅に向かった。
横浜市内の自宅まで30キロ走ってから翌朝早く熱海駅に向かうぐらいなら、今晩のうちに熱海に直行しちゃう方が休めるんじゃないかと。
100円ショップで買った自転車カバーをミドリビンカにかぶせ、さも輪行バッグかの様な面をして新幹線に乗り込んだ。
……胸が高鳴った。勝負に一歩リードしている(?)優越感。新幹線で温泉街に向かっているこのブルジョワ感。なんて贅沢なんだ。
横浜本社のみんなは今夜、せいぜいボケーッとチェーンに油を差して過ごすぐらいだろう。なんてマヌケなやつらなんだ。

町並みはだんだんさびれていき、そして夕闇に包まれていった。

熱海の夜。そこにはスマートボールとか場末のストリップとかの誘惑があるのだろうか。
しかし、僕の準備はまだ終わっていなかった。
天城峠を下ることから始まり、海岸線を走る後半のコース。アップダウンはどれぐらいのものなのか身体で確かめておきたかった。まだその区間のギア比に迷いがあった。
外はもう暗くなっていたが、えーい行っちゃえと熱海から伊豆急に乗り換え、海岸沿いのコースが始まる辺りの河津(かわづ)という駅で降りることにした。

トンネルを抜けると、そこは雨だった。

時刻は21:00過ぎ。
まさか降るとは思わず、雨具なんか何も持って来ていなかった。バックパックには、スプロケ外しとかロックリング外しとかスペアのチェーンとか、無駄に重い物しか入っていない。
とりあえず熱海方面に走れるだけ走ってみようか…。

真っ暗な道が続く。
そして静岡の雨つぶはデカイ(気がする)。
街灯が極端に少ない夜の135号線は、大げさではなく何も見えない。実際、左肩が何度も崖にぶつかった。半島の東側を北上するので左側に山があるが、南下する方向だったら海に落っこちてクラゲのエサになっていてもおかしくない。今、僕が伊豆にいることは誰も知らない。誰にも知られずに海の藻屑と消えるのはわびしすぎるというものだ。
時おり車が通りすぎる時にだけ道が照らされる。だがその見返りに派手に水しぶきをくらう。その繰り返しでズブ濡れになりながらそろりそろりと走った。
ギア比の参考になんてまったくならず、滝の荒行みたいなライドである。
うわあ、こんなことならボケーッとチェーンに油を差して過ごせば良かった…。
早く熱いシャワーを浴びて、旅館の冷たくて固いシーツで眠りてえなあ……。
そんなことばかり考えはじめた。

そんなライドでどれだけ進んだ頃だろうか、ふと空を見上げると、雨雲の切れ間に星がまたたいていた。
空気がきれいなのか、静岡は星も大きく見える(気がする)。

「ツール・ド・東伊豆」で星を見るのもおれ一人ぐらいだろうなあ……。そう思うと、この自分だけのツールもなかなか悪くないと感じた(15秒ぐらいだけ)。

やっと泊まれそうな町が見えてきた!
熱川。
ちょうど第3ステージのゴール地点でもある。

もう一つのツールド東伊豆 熱川宿探し

時刻はすでに22:00をまわっていた。そういえば夕飯もまだだった。ところどころから湯けむりが立ちのぼっていて雰囲気がいいぞ。坂道をくねくね下って行き、灯りのついている宿を探す。

「すいませーん、一人で素泊まりなんですけど、今日空いてますか?」

と聞くと、
「…うちは格安なので、満室なんですよ。」
「今日は満室で…隣は空いていると思いますが。」
「予約を頂かないと…お布団を敷いたり準備もありますので…。」
「素泊まりとか、そういうのはやっていないんですよ…。申し訳ございません。」

軒並み4タテを喰らった。
布団ぐらい自分で敷いてやるっつーのに。
まあ、びしょ濡れで小汚ないバックパッカーに夜遅く門を叩かれても当然の対応なのかもしれない。僕が宿の人だとしても追い払いたいと思うだろう。
聞くとこの時間で開いているかもしれないビジネスホテルが伊東(25キロ先)と、河津にあるという。
こっちはその河津から這う様にして今やっとたどり着いた所だっつーのに、また自転車で戻れるかコンニャロー!!
……とは言わず、ハラワタが煮えくり返りながらも紳士的に立ち去った。宿の名前は伏せておいてやる。
まだ晩メシも食ってないのに、こっちがクラゲの晩メシになってはたまらない。

自動的に、今夜の宿は決まった。

もう一つのツールド東伊豆 ベンチ

ここらへんの駅は、夜になると無人駅になる様だ。トイレで身体をざっと洗い、やっと一息ついた。
今夜の夕飯、湿った揚げせんべいをボソボソとかじりながら、これからどうするか考える。
ああ…おとなしく熱海で泊まっときゃ良かったなあ……もうこんなとこ二度と来るか!

完全に自分のせいなのに、これは八つ当たりというものである(ちびまる子ちゃんのナレーション風)。

今週はいつも以上に睡眠不足だったが、蒸し暑くてなかなか寝つけず、意味なくフラフラ歩いてみたり時刻表を調べたりした。
何よりも、蒸れたパンツが気持ち悪かった。
昭和の名作漫画、男おいどんと自分が重なった。

それでも深夜、身体中ガリガリ掻きむしりながらもだんだんまどろみ落ちていく。
虫に刺されて全身が山岳賞模様になっていくのを感じながら…。

7/6(土)

5時ごろ目が覚めた。三時間くらいは眠れた様だ。
始発まではあと一時間ほどあり、まだ夜も明けていない。
こんなところでうだうだしていたくないし、ちょっとでも走って目を覚ますか!
これが更にやらかしちゃうことになるとしてもいい、少しでも前に進もうと決めた。

坂をくねくね登り、135号線に出た。
朝もやの温泉街を見下ろす眺めは、とても幻想的だった。荒廃した近未来都市のように見えた。
ある作家が「初めてモナコに行った時、熱海に似ているなと思った。」と言っていたのを思い出した。

もう一つのツールド東伊豆 早朝熱川

さあ新しい一日が始まる。気持ちもリセットしていこう。
数時間前にはハラワタ煮えくり返った町だったが、今はこう言おう。
アリガトウ、熱川。
また来るぜ、今日。

第3ステージのゴール地点であるコンビニを通り過ぎ、第4ステージは135号線をひたすら北上するだけだ。
河津から熱川までも結構アップダウンがあったが、ここから先の海岸線も平坦ではない。ギア比はフリーで2.8ぐらいがいいかな?
まだこりずに作戦を考えていた。

夜が明けてきた。
朝焼けと夕焼けの時間帯を「マジックアワー」とよぶと聞いたことがある。

もう一つのツールド東伊豆 マジックアワー

漁師町を照らす朝焼けはすごくきれいだった。

この風景に出くわせただけでも、
昨日から前乗りして良かった、
一人だけのツール・ド・東伊豆はこの為にあったんだ……!
と思えた。
走りながら、無意識に「きみだけのマジックアワー」という歌が口をついて出た。

♪じょうずに出来るかってことじゃな~~い

「ぼくだけのマジックアワー」
じょうずに出来なかったが、もうすでに愉しいレースになった。

もう一つのツールド東伊豆 ペダリング

当日の集合時間は熱海駅に朝8:00。
レースというものは、スタートする時にはすでに勝負がついているものなのかもしれない。
もし熱海駅前に布団が敷いてあったら、横になって5秒で眠れるだろう。誰が一番早く眠れるか競争だったら優勝する自信がある。
シュワシュワの頭でそんなことを考えた。

伊東駅にフラフラとたどり着いたのが7:00。
熱海まではあと21キロほどあるようだ。一時間で走るにはちょうどいい距離だ。普通のコンディションなら(苦笑)。
そして電車だとあと5駅。

僕は駅のベンチでタオルを乾かしながら、缶ジュースをたてつづけに3本ぐいっと飲み干した。

朝日を横から浴びて、ミドリビンカがギラリと輝いていた。

もう一つのツールド東伊豆 自転車 朝日

僕のツール・ド・東伊豆はここで終わった。